ハービー・スチュワードは私の最も好きなテナー奏者の一人である。私の最も好きなテナーはスタン・ゲッツであるが、スチュワードを生で聴いて以来、その日のフィーリング、体調(?)によって、ゲッツとスチュワードの順位が微妙に入れ替わる。ちなみに他の奏者は、3位レスター・ヤング、4位ズート・シムズ、5位アレン・イーガー、6位ワーデル・グレイで以下10位まで無く、ロリンズ、コルトレーンあたりは17位、18位あたりをウロウロしている。」これは2000年12月に発売されたスチュワードの“ハービーズ・ヒア”のライナーノーツに書いた私の言葉である。そして今でも(今後も?)この考えは変わっていない(変わらない)。少し変わったといえば、ズート・シムズの順位が年々低下していることだろうか。現在は9位に位置している。一年に一つずつ落ちていく。どうしてかはハッキリしないが、ズートにスリルを感じ無くなってきた。年をとれば取るほど順位を上げていくタイプの奏者のはずだが、峠を越しつつある60年代以降のズートの演奏が余りにも多くあり過ぎるのが原因の一つであることは間違いない。80年代中期まで現役で活躍、多くのジャズファンを楽しませてくれたズートには誠に申し訳ないのだが、、、、。ズートが沈んでいった分誰が繰り上がったかというと、4位、5位にそれぞれイーガーとグレイが収まり、8位にビル・パーキンスが進出してきた(6位、7位は空位のまま)。このパーキンス、モダンテナーの中で具体的に最もレスターに近いテナーと私は見ているのだが、いかがなものだろう?
さてスチュワードの話に戻ろう。今時、「私はハービー・スチュワードに心から狂っています」などといったら笑われるのが落ちだろうが、私はそのように笑う人達を心の底で笑い返す。それでも最近我が家のそばの、コーヒー豆店のマスター(私よりずっと若い、しかも彼の一番のお気に入りトランペッターは何とファッツ・ナヴァロ!!!)がスチュワードの大ファンであることを知って、其の晩嬉しくなって寝付けなかった!!世の中には判った人もいるものだ。マスコミ(多くの場合広告を沢山貰ったジャズ雑誌)がやれエリック・アレキサンダーだ、ハリー・アレンだと騒ぎ立てるのも商売だからしょうがないが、もう少し深い取り組み方ができないものだろうか?イギリスのジャズジャーナルあたりをたまには読んでもらいたい。今でも隠れた、あるいは忘れ去られた名奏者を、レコード会社のお世話にならずにとりあげているぞ、、、。(どうも今日はハービーについて書いているのでハイになっている、、、)。
ところで巷間、ハービー・スチュワードは<モダンな感覚でテナーを吹いた最初の奏者、あるいは奏者の一人>と言われている。あるいは<スタン・ゲッツが大きな影響を受けたテナー奏者>とも言われている。ハービー・スチュワードにとってこれ以上の賛辞はあるまい。ところがいつも控えめで謙虚なハービーはこれについて「私にはわからない」とただ一言語っていた。実にかっこいいと思いませんか?真に偉大な人間は自分について決して多くを語らない。
さてそのスチュワードについて、昨年(2004年)、横浜に住むズート・シムズのコレクターとして有名なSさんから「ハービー・スチュワードの記事が載っている雑誌があったから送ります」との嬉しい知らせがあった。それはイギリスのジャズジャーナル誌の1995年5月号で、著者はジム・アンダーソンという人で、<忘れ去られた人達/ハービー・スチュワード>というタイトル。一ページの記事で、1990年代に撮られたと思しきスチュワードのアルトを吹いている写真が載っていた。読んでゆくうちにこのアンダーソンという人は凄い人だと感心した。それはスチュワードに対する愛情の深さと、こだわりが強く感じられたからだ。例えば、スチュワードは1947年、あの有名なウディー・ハーマンのセカンドハードバンドにたった3,4ヶ月しか在籍しなかったのだが、アンダーソン氏によればスチュワードの後任のアル・コーンが入ったセカンドハードはもはや真の意味でのセカンドハードではなく、「ただ単に入れ替わっただけ」とキッパリ言い切っている。スチュワードの吹くアルトとテナーのサウンドがリードしてはじめて、セカンドハードといえるのだそうだ。確かに言われてみれば其のとうりかもしれない。アンダーソン氏は尚も続けて、あの偉大なスタン・ゲッツがいかにスチュワードに心酔していたかゲッツの言葉を引用している。曰く、「私の聴いた限り、最も人間の声に近いサウンド」、「ハービーには全くノックアウトされていた」。またこうも言っている。ゲッツという人はいつも同業のサックス奏者、とりわけポールウィナークラスの奏者にたいして辛辣で、ひどいけなし方をする人であったが、ことスチュワードに関しては、繰り返しその素晴らしさを語っていたという。私も以前どこかの雑誌(勿論外国の)で、スチュワードがソロをとるとあまりのその素晴らしさに、居並ぶ奏者たちが彼を見上げた、という記事を読んだことがある。ことほど左様にスチュワードは同業のサックス奏者から信奉されていた<テナーマンズ・テナーマン>であったのだが、その控えめな人柄と、あまりにハイセンスなプレー振りで決して一般的な人気を勝ち得ることは無かった。そのあたりのギャップを歯がゆく思ったゲッツが、この一歳年下の不遇な奏者をいつも気にかけていたのだろう。
さて1947年の夏、LAでスチュワードとゲッツはトミー・ディカーロのスモールバンドで席を並べている(他のメンバーはシムズ、ジュフリーとリズムセクション)。多くの識者が指摘するように、ゲッツはこのとき初めてハッキリとすでにモダンなフレーズとスムーズなサウンドで吹いていたスチュワードから、具体的な意味での、大きな影響を受けたに相違ない。スチュワードの初期の録音、例えば1944年、45年に記録されたアーティー・ショーのバンドでの録音、“ラブ・オブ・マイ・ライフ”や、とりわけ有名な“ホーネット”でのソロを聴くと、ディカーロバンドでのふたりの邂逅以前の3年前、すでにスチュワードはハッキリとモダンな感覚による演奏をしており、この時期のゲッツの、デクスター・ゴードンと聞き違えそうなゴリゴリとしたフレーズ、ハードな音色でのスタイルをスチュワードのそれと比較すれば、いかに後年のクールなゲッツのスタイルの源泉がスチュワードからの影響であったかお分かりいただけよう。
また1951年春、スタン・ゲッツは初めてヨーロッパ、スウェーデンに赴いて有名な“懐かしのストックホルム”を含む名演を残したが、このとき地元の放送局に招かれたゲッツはインタビューに答え、「サックスを吹き始めた頃特に意識したプレーヤーはいなかったが、すぐにパーカー、レスター、そしてハービー・スチュワードが気になりだした」と語っている。多分これは1944年、45年ごろの話のことだろうから、当時すでにアーティー・ショーバンド在籍時のスチュワードのモダン感覚の演奏に、ゲッツは心を奪われていたのだろう。
ところで前述のようにスチュワードは<モダンな感覚でテナーを吹いた最初の奏者、あるいは奏者の一人>とされている。私もその説に大賛成の一人である。ただこういうことはオリンピックの100m競争と違って時計で測れるものではないから、だれが一番、誰が二番と断定されにくい。あくまでも残された録音、記録をもとに判断せざるをえないからである。ただこれだけは言えそうだ。ハービー・スチュワードはレスター・ヤングと並ぶ<ジャズ史上最も繊細なテナー奏者である>と、、、。なるほどスタン・ゲッツも繊細な奏者(特に40年代後半)ではあったが、ゲッツの演奏を注意深く聴くならば、<触れなば落ちん>演奏がある反面、凄みのあるというか、言葉は悪いがドスの利いた演奏もある。そこへいくとスチュワードの場合、その初期の演奏から後年のものまで、一貫して実に繊細なプレー振りで、例えばRCAに1957年に吹き込まれた<4人兄弟の再会セッション>のスチュワードの演奏は、他の3人(シムズ、コーン,チャロフ)のそれに比べ際立ってリリカルだ。因みにこのセッション、チャロフの最後の録音でもあり、私の愛聴盤のひとつだが、この作品のハイライトの一つは疑いも無くスチュワードをフィーチュアーしたアル・コーンのマイナーチューン“ソー・ブルー”であろう。全くこのメランコリックな曲調を正しく表現するには、少なくともこの日の録音ではスチュワード以外考えられない。またスチュワードにとっても、このテンポからミディアムテンポまでが最も適したテンポのはずだ。私はどうスチュワードという人は、アップテンポと長いソロは適していないのではないかとにらんでいる。蛇足ではあるがこの日のセッションで体調の優れぬチャロフの代役として、エリオット・ローレンスバンドからチャーリー・オケイン(bs)が加わったそうだが、なるほどこの“ソー・ブルー”のアンサンブルパートのバリトンサックスの音色や、震えるようなサウンドはチャロフではなさそうだ。多分アンサンブルの部分だけオケインが吹いて、ソロはチャロフが吹いたのだろう。
さてアメリカでは、あるいは世界中どこでもスターになるには派手な、インパクトの強いプレーをしなければ一般には受けないと思うのだが、其の点このスチュワードはそれとは全く無縁の、あるい対局にあるようなスタイルの持ち主だ。それゆえハービーをリーダーにした作品は当然ながら少ない。其の少ないリーダー作品の中で私が特に好きなのは、ルースト時代の録音で、これ等は今でも非常によく聴いている。特にディック・ハイマンがピアノを勤めた“My Last
Affair”や”My Baby Just Cares For Me”、一方当時のチャーリー・パーカーのリズムセクションにジミー・レイニーのギターを加えたセッションの“Pasport
ToPimlico”やアル・コーン作のマイナーチューン”T’aint No Use”等は素晴らしい。よくぞこの時期の、地味なスチュワードの録音を思い立ってくれましたとルーストの関係者に深く感謝したい。因みにこのルーストの録音に関して、スチュワードが来日した際(1992年5月)訊いたことがあるのだが、たまたまスチュワードがニューヨークの通りを歩いているとバッタリルーストのプロデューサーと出くわし、その場で録音の話が決まったと言っていた。
このように私にとってスチュワードは長い間憧れのサックス奏者であった。それがある時、ピアニスト、ジーン・ディノヴィと連絡を取っていた折、ジーンの口から1960年代にLAでよくスチュワードと演奏していたと知らされた。そして今でもたまにスチュワードと連絡を取ることがあるという。そこで考えた。「よし、この次にディノヴィのトリオを日本に呼ぶ時スチュワードをゲストに加えて呼んでみよう」。私は思い立ったら直ぐ行動に移す(たまに早すぎて失敗する時もある)。其の考えを次の日、横浜のリトル ジョンというジャズ喫茶で2,3の友達に話すと「それは凄いよ」との意見続出。いい気になって其の晩、早速ディノヴィに電話して私の考えを話しスチュワードの電話番号を教えてもらった。ついでにベーシストについても意見を求めると、モンティー・バドウィグがよいという。その晩スチュワード、バドウィグ二人に電話をして二人のOKを取り付けた。つまりリトルジョンにいった晩、ほぼ話をまとめてしまった。その後ある方の推薦で日本人ドラマーのIさんにも了解がとれ、Herbie
Steward/Gene DiNovi/Monty Budwig/ Iさんからなる実に通好みの、一般の“呼び屋さん”では絶対呼ばない、呼べないグループが日本にくることになった。その後少ししてベースのバドウィグが思いもかけぬ病気によって亡くなってしまい、ディノヴィに相談すると、いつもカナダで一緒に演奏しているデーブ・ヤングを紹介された。当初、正直いってネームバリューの点でバドウィグに未練もあったが死んでしまったのではしょうがない。
そして1992年の5月になり、スチュワードのグループの来日が近づいた。ところがこの頃、長く闘病生活をおくっていた母親の具合が一段と悪くなり、来日一週間前から明日をも知れぬ容態となってきた。これはどうも最悪(来日と母の死が重なる)の事態になるという心配が現実のものになった。何と来日前日に母が亡くなった。成田へ演奏家を出迎えに行って横浜のホテルに送り届け、お通夜の席に遅れて席に着く(私は長男)という異常事態となってしまった。何とかお通夜を済ませ、翌日は告別式。告別式を済ませて横浜のスタジオでリハーサル。正に無我夢中であった。これほど厳しい事態に追い込まれたのは、2度の火事以来だ。そのときつくづく考えた。「これは絶対バチが当たったのだ」と。普段勝手し放題でその報いがここに来たのだと、、、。そうはいっても当面の問題を片付けてゆかねばならない。
そんな時またしても問題発生だ。ドラマーIさんを交えてリハーサルを終え(葬式の晩でもある)夜家に帰って休んでいると、10時ごろ電話が鳴った。ジーン・ディノヴィからだった。「ミツオ、3人で話したんだがあのドラマーを変えてもらえないか?」これにはびっくり。どうもIさんに不満らしい。そうはいっても明日からもう公演が始まるのである。早速、ディノヴィと共演経験がある木村由紀夫に連絡を取る。うまい具合に木村氏のスケジュールは空いており、ホッと胸をなでおろす。
次の日は今は無い原宿のキーストンコーナーでの初日。木村氏を交えたリハーサルを終えて近くのレストランで食事をとったのだが、びっくりしたのは、リーダー、スチュワードの手がなんと細かく震えているではないか!!!滅多にない自分のリーダーによるコンサートの緊張感!!!こんな表情のジャズマンを見たことが無い。案の定、過度の緊張と時差ぼけ、リハーサル不足でその晩の演奏は、正直いってスチュワードに関しては期待はずれだった。帰りの車の中でも、普段口数の少ないスチュワードがいっそう沈んでいた。それでもその後の横浜公演、横浜での録音、西条孝之介との録音をこなし徐々に調子をあげていった。いよいよ日本での滞在も終わり近く、山形での公演に向かった。この頃になると時差ぼけも漸くなくなり、スチュワードにも余裕が感じられるようになってきた。
山形へ向かう為、東京駅で新幹線を待つ間、スチュワードは私に向かって自分の着ているシャツのボタンの間から手を中に入れ、バタバタさせて「ミツオ君、私の気持ちは今ドキドキしている」と嬉しそうに顔をほころばしていた。なぜかというと彼は乗り物に眼が無く、新幹線に乗れるので嬉しくてしようがないという。汽車が動き出すとスチュワードは姿を消し、暫く帰ってこなかった。彼の話だと、車両を全部チェックしてきたのだという。
山形公演は、山形でジャズ喫茶“オクテット”を経営する相沢 栄氏のお世話で実現した。全く私はこの方に頭が上がらない。当日はコンサートの模様はテレビで放映され、開演前カメラに向かって、あらかじめ打ち合わせどうり全員による「オバンですー」の挨拶で始まった。コンサート直前、突然の激しい雨でスタジオOZのステージに雨漏りがしたり、また雨でお客さまの入りも心配したのだが、やはり相沢氏のご努力と、熱心な山形のファンで会場は一杯だった。演奏者のほうもこれに気を良くしたか、あるいは漸く演奏もこなれてきたか、いずれにしても気合が入っていた。かってのアート・ペッパーの山形での録音でもわかるように、熱心なファンを前にすれば自然に演奏も乗ってくるものだ。私はコンサート前、この晩が最後のコンサートであること、そしてスチュワードにもう2度と会うことが会かも知れぬといった気持ちから、特別“グッド・バイ”をリクエストした。スチュワードはこの突然の申し出を快く受けてくれ、第二部の最後にクラリネットでこのゴードン・ジェンキンスの名曲を演奏してくれた。私はこの時、ステージの端でこの演奏に聴き入っていたのだが、スチュワードのソロが終わり、ディノヴィのピアノソロのブリッジのあたりで突然涙が眼に浮かんだ。私のような1ジャズファンの申し出を信じ来日して素晴らしい演奏を聞かせてくれた憧れの演奏家達、また相沢さんや山形の熱心なファンの方々、そして数日前に亡くした優しかった母の姿が眼に浮かび、、、とにかくこの晩ほどジャズを聴いてきて良かったと思ったことはなかった。中学3年からジャズに親しんできて、数多くのコンサートにも行ったが、この晩のコンサートは今でも一番思い出深く、忘れることができない。
さてそのハービー・スチュワードの居所がようとしてわからない。スチュワードという人は頻繁に住所を変えるからである。10年以上前連絡を取ってから全く連絡がつかなくなった。できることなら又何時の日か、テナーを携え来日してもらいたいと思っているのだが、、、。また未だ発表していない録音についても相談したいのだが、、、。ハービー・スチュワードの山形での録音、“ハービーズ・ヒア”は数々の思い出と、その素晴らしい演奏で、全ジャズレコード(CD)で私の最もお気に入りの一枚なのだが、今は“Where Is Herbie?/ハービーよ今いずこ?”という状況でとても寂しい。 |